テンプルちゃんまでの長い道のり(1):遺伝病

I. 2代目の犬を求めて子犬探し

先代の犬が死んで、我が家は深い悲しみに包まれました。新しい犬を迎えて、犬と一緒の幸せな日々を取り戻したいという希望と、同じ犬はいないのだから、もう2度とあの日々は帰ってこないだろうという諦めとが複雑に混じり合った状態がしばらく続きましたが、繰り返される迷いと希望の果てに、もう一度子犬を育ててみることを決意しました。しかし、この決断が、あれほどの苦しみを我が家にもたらすとは想像もしていませんでした。健康な子犬を探し出すというのがこんなに大変だったとは知りませんでした。

先代の犬が奇跡のように思えたほどでした(何も考えずに気軽に地元の仲介業者から購入したにも関わらず、健康で長生きしてくれた上に、おちゃらけで人を笑顔でいっぱいにするかと思えば、病気の苦しみに黙って耐える辛抱強い性格を持ち、頭が良くて、私たちのことを思いやる優しい心を持った素晴らしいボーダーコリー だったのです)。

まずは、先代の犬と同様に地元で探すことにしました。しかし、前回犬探しをしたのは10年以上も前のことです。つまり、「イエローページ」(電話帳)をめくってブリーダーを探し、電話をかけて問い合わせ.....、などといった方法で犬探しを行なったのですが、今やネットで検索するのが当然の時代となり、まったく要領が異なる方法での犬探しとなりました。利用したのは、「みんなのブリーダー」というのと、「ブリーダーナビ」という子犬斡旋のサービスです。そこで、「ボーダーコリー 」とキーワードを打ち込んで、検索するとたくさんの候補が出てきます。その中から地元周辺のブリーダーを探すわけです。

コロナウイルス が蔓延し、子犬を飼い始める人が激増した、というニュースは知っていましたが、これほどまでに子犬の奪い合いになっているとは思いませんでした。ぼうっとしているとあっという間に、可愛い子犬から売れてしまいます。地元での購入を諦め、少し遠目の場所も候補に入れることにしました。そこで見つかったのが、牧場が売りに出していた子犬でした。

II. 牧場の子犬(ボーダコリー の遺伝病)

山あいにあるこの牧場では様々な動物が飼育されていて、ボーダーコリー やプードルなども飼われていました。新たに生まれた子犬たちは、牧場で飼う分を確保した後、残りが一般に販売されていました。お父さん犬もお母さん犬も一緒に暮らしているので、成長したらどんな姿になるのかおおよその見当がつくということで、犬を購入する立場からはとても便利な牧場です。

何回か通って見学をさせてもらい、目当ての子犬以外にも、きょうだい犬、両親犬、さらには一緒に暮らしている別の系統のたくさんの犬など、様々な犬たちと触れ合いを持たせていただき、大変楽しい時間となりました。

先代の犬が癌で死んだので、遺伝的な疾患というものに私たちはこの頃敏感になっておりました。特にボーダーコリー は、人間が牧羊という用途のために、いわば強引に血統をいじって「作り上げた犬」であるため多くの遺伝病を抱えていることが知られています。遺伝子検査をして、CL病などのよく知られた遺伝病の因子をもっていないかどうか確かめながらブリーディングを行なう必要があります。しかしながら、日本の業者は洋犬を飼い始めてからの歴史がまだ浅く、すべてのブリーダーが遺伝病についてよく知っているとは限らないため、利益優先で繁殖を行なって不幸な結果になってしまう事例が21世紀に入ったばかりの頃も頻発していたようです。

そこで、この牧場主に遺伝子検査のことを問い合わせてみることにしました。実は、ブリダーに遺伝子検査のことを訪ねるのは意外に勇気がいります。というのは、遺伝子検査のことをよく知らず、遺伝病についての理解が浅い人もまだかなり多くいて、しつこく聞くとそれだけで破談になることが結構あるからです。私たちも、この牧場に至るまでに、「みんなのブリーダー」で見つけた東北地方と北関東地方の2件の犬舎と関係がギクシャクし、かわいい子犬だったにも関わらず販売してもらえないことがありました。それは予想以上に感情的な対応だったため、私たちは狼狽いたしました。

そんな嫌な経験がありましたので、牧場に電話で問い合わせをしたときに、「うちは3種類の検査をやってまして問題ないという結果がわかってます。もし追加の検査が必要ならば、検体をお渡ししますので、そちらの選んだ検査会社で存分に検査していただいて構いませんよ」と答えていただいたとき、この牧場主の心の広さに心底感動しました。

II-1 ボーダーコリーの遺伝病:CL病など

ボーダーコリー の遺伝病として、特に有名なものにCL病があります。CL病に関しては、日本で最初に発症した「五右衛門」くんのHPがとても役に立ちます。CL病は脳が萎縮する遺伝病で、以前英国の牛で発症して大問題となったBSE(いわゆる狂牛病)や、人間のアルツハイマー病に似た感じの脳神経系統の病気です。したがって、五右衛門くんの病状記録を読むとわかるように、脳症状に関連する悲劇的な苦しみの果てに短命でボーダーコリー の「人生」が閉ざされることになります。私たちの先代の犬も脳周辺の癌でしたので、同じような悲しみを(つい最近)味わいました。そのため、CL病について迂闊な理解しかしていないブリーダーには警戒感をもっていたのです。

五右衛門くんがわずか2歳で亡くなったのは平成14年(2002年)です。21世紀が始まって間も無くの頃の状況として想像されるのは、CL病が日本中の犬舎に蔓延していたのかもしれない、ということです。この病気を確定診断するためには脳細胞の病理検査が必要です。つまり死亡後に犬の脳を解剖して調べるということですね....。これは個人的にも強い躊躇いがありますし、獣医にとってもお金にならず面倒なことですから避けてしまうでしょう。このような理由で、多くのCL病が五右衛門ちゃんが死ぬまで見逃されていたと思われます。しかし、五右衛門ちゃんの飼い主の熱意によって、日本のボーダコリー におけるCL病の存在がついに証明されたのです。

海外から気軽に犬を輸入し、利益優先で無計画に繁殖を繰り返すと、この病気をもつボーダーコリーがたくさん出てきてしまう可能性が高まります。というのは、CL病は「潜性遺伝」だからです(以前は「劣性」という用語を使っていましたが、病気の優劣を表すわけではないので、用語が変更されました)。潜性遺伝というのは、原因となる遺伝子を両親から一つずつ受け継いだときに初めて発症し、片親から受け継いだだけならば発症しません(片親からだけの場合をキャリアと言います)。ちなみに、片親から受け継いだだけでも発生する遺伝形質もあります。これは「顕性遺伝」(かつて「優勢遺伝」と呼ばれたもの)と言います。

遺伝学に疎いブリーダーは、父犬も母犬もCL病にかかっていないのだから、その子犬たちもCL病にかからない、と考えている場合があります。そしてそのような交配をしても「うちの子犬たちは実際にCL病が出てないんだから大丈夫」といいますが、こういう主張をするブリーダーは犬を繁殖させた経験が浅い場合が多いです。というのは、母犬も父犬もキャリアの場合、子犬がCL病を発症する割合は1/4、つまり25%に過ぎないので、繁殖の初期ならば、偶然病気が発症しない組み合わせになっている可能性があるからです。そんな彼らも、同じ組み合わせで交配を続けていくと、いずれはCL病の子犬が誕生してくるはずで、10年も20年も犬舎を運営している人ならば、「(遺伝子検査をしていなくても)これまで出てないから大丈夫」とは決して言わないでしょう。

両親がキャリアの場合に子犬がCL病を発症する(アフェクテッド)確率の計算は次のようになります。まず、CL病の遺伝子要素をX,Yとし、Xがyes(発病), Yがno(非発病)とします。CL病の遺伝子は2つの要素のペアになっているので、一匹の犬がもつCL病遺伝子の組み合わせとしては、XX, XY, YX, YYの4種類になります。最初の文字が父犬から受け継いだ要素、2つ目の文字が母犬から受け継いだ要素という意味に捉えることにします。

潜性遺伝の場合、「キャリア」というのは、XYとYXのことです。XXを「アフェクテッド」といいます。CL病が発症するのはXXのケースのみとなります。一方、YYを「クリア」あるいは「ノーマル」といい、ブリーディングの観点からは、CL病発病の可能性をまったく持たない「めざすべき血統」ということになります。本来、ブリーダーはクリアの親同士で繁殖を試みるべきですが、営利目的の繁殖の場合、全ての遺伝病でクリアをもつ成犬をを手に入れるのは非常に高価になる傾向があるので、なかなか守ってくれないことが多いようです。

一方で、顕性遺伝の場合(かつては優性遺伝と呼ばれた)、XYとYXも病気を発症してしまいますので、キャリアという概念はなくなります。ただ、オーストラリアのボーダーコリー 犬舎「エメラルドパークボーダーコリー 」によると、顕性遺伝の病気はボーダーコリー にはないそうです。しかし、ボーダーコリー には、生まれつき耳が聞こえない(deaf)という問題を引き起こす可能性をもつPiebald遺伝子というのがあります。これは顕性遺伝です。とはいえ、この遺伝子があるから必ずdeafになるというわけではありません。もともとPiebaldという遺伝子は、ボーダーコリー の特徴である白黒の毛並みもコントロールする遺伝子なので、ある程度ゆるく管理されているようです。Piebald遺伝子を持つと、白い毛の面積が(黒い毛に比べて)広くなります。(なぜ白い毛が聴力と関係するかは、別の機会に書きたいと思います。)

さて、両親がキャリアの場合、父犬(XY)と母犬(XY)の交配となるので、子犬はXX, XY, YX, YYの4種類の可能性があります。したがって、発症するのは1/4ということになるのです。キャリアである父犬や母犬は発症しませんので、元気いっぱいに暮らしていることでしょう。しかし、その子犬たちが同じような「人生」を送ることができるかどうかは保障されないのです。4匹に1匹の割合でCL病に侵されてしまうのです。

しかし、確率というのは当たり外れが規則正しく順番にくる訳ではありません。例えば、ブリーダーを始めてから最初の2年くらいは、運良くXX(アフェクテッド)の子犬が1匹も生まれない可能性だってあるでしょう。浅い経験に基づく「大丈夫」という判断をするブリーダーはこのタイプと思われます。しかし、そんな彼らも10年ちかく同じようなことを繰り返し、例えば1000頭の子犬が10年間で産まれたとするならば、その1/4である250匹程度にCL病発症の子犬が出てくるはずなのです(最初の2年で産まれた200頭に病気が全く出ないとしても、8年目になって800頭近くの子犬を扱ってくるとそこで一気にまとまって発症例が続発するかもしれません)。数学的には、これを「大数の法則」といいます。回数が増えれば増えるほど、確率的な事象のゆらぎ(ブレ)が小さくなって、確率論どおりの結果になっていくという法則です。

優秀な犬舎というのは、大枚をはたいてクリアの両親を、例えばオーストラリアから輸入し、ブリーディングを行うので、決して遺伝病は発症しません。父(YY)、母(YY)ですから、子犬も(YY)以外になりようがないからです。

ところが、優秀な犬舎でも、遺伝病のことをよく理解していないと、よくない状況の火種となることがあるでしょう。例えば8年目に輸入した母犬が不慮の事故で死に、2代目の母犬を安く日本国内から調達することになったとしましょう。遺伝子検査をしていないと、この2代目がキャリアである可能性が否定できなくなります。そうすると、父(YY)、母(XY)の交配ということになり、子犬は(YX), (YY)の2種類となります。キャリアとノーマルの組み合わせとなる、この段階では遺伝病の子犬はまだ発生しませんから、一応「優秀な犬舎」と言われ続けます。

ところが、この犬舎から子犬を2頭調達し、新たに子犬販売の商売を迂闊に始めた(遺伝病に疎い)業者や個人がいたとすると、日本の子犬市場の中にいずれはCL病が入り込んでしまうことになります。

このように、遺伝子検査をないがしろにしていくと、最初はことなきをえるので良さそうに見えるのですが、時が経過するにつれ問題が広がっていってしまうのです。